Thisコミュニケーション 第49話(完) This Communication 感想

遂に迎えたThisコミュニケーション最終話は、巻頭カラーで掲載。合理性の悪魔が繰り広げた喜劇、ここに完結。

Disじゃない、”This”コミュニケーション

「何故Thisコミュニケーションなんだ?Disコミュニケーションじゃないのか?」と疑問に思ってた。第一話からして、よみは死にかけの人を見つけても素直に呼ぶことも出来ない状態。thisとdisのダブルミーニングとしても、「dis communication(コミュニケーション不足、不全、不達)」の方が合っているのでは、と。

でもThisの意味を考えると、「とあるコミュニケーション」とか、「一つのコミュニケーション」みたいに訳せる。デルウハ殿とハントレス達を代表に、大人と子ども、上司と部下、所長とデルウハ殿、親と子、異教徒と異教徒、同僚、人間とイペリット・・・作中ではありとあらゆるコミュニケーションの場面が出てくる。

話が進むごとに目まぐるしく変わるコミュニケーションの相手と状況。それらも指しているならば「Thisコミュニケーション」というタイトルも実はピッタリな作品なのである。

けど、この最終話でそんな疑問にも完璧に答えてくれた。そもそもデルウハ殿は話し合いを「あいまいな自己解釈を前提とした会話用の言語表現」と断じているし、愛や情は「自分にバイアスを賭けて悦に浸るただの勘違い」とまで言い切っている男である。

そんな彼が最期に行ったコミュニケーションが、ただ手を握るという反射的な行動。それはよみ達をデルウハ殿は愛してくれていたのかという、極めて重要な質問への答えだった。

デルウハ殿が明確な意志で行ったわけではないこのコミュニケーションが、彼女達への愛や情の勘違いとなって心の支えとなり、瞬く間にイペリットを殲滅していくことになった。図らずも、「俺達が世界を救う」というあの言葉が本当になってしまったのである。

受け手の勘違いという意味ではdis communicationだが、結果的にそれが世界を救う決め手となり、彼女達の心を救ったという意味ではThis communication、理想的なコミュニケーションの一つの形。しかしこれがデルウハ殿との最期のコミュニケーションであり、喪失という意味でのdis communicationでもあった。

disコミュニケーションであり、Thisコミュニケーションであった。このコミュニケーションはある意味不正解だけど、ある意味正しいコミュニケーションでもあり、紛れもなくコミュニケーションによって世界が救われた物語だったのだと。最後の最後に見事なタイトル回収を見せてくれました。

六内円栄先生、素晴らしい作品を本当に、本当にありがとうございました。


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Thisコミュニケーション 11

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