さて、一周分のプレイ日記は終わりましたがサンゴについてちょいと単独記事で色々語りたい。
・・・あと、「プレイ日記」だと先人様と被るのに今更気づいたので「感想日記」にタイトルを変えまする。
「サンゴ」であること
サンゴは序盤からトモキさんに電話で説明している通り、マユという女性らしさの塊のような名前を避けている。作中でヒラウチと呼ぶ人はいても、マユと呼ぶのは家族だけ。
名前はコトダマだと言っている通り、サンゴにとってサンゴとマユは別の存在で、とても重要な意味合いを持っている。
大別すると、誰にも臆さないし屈しない強い自分という偽りの仮面が「サンゴ」。弱い自分だと思っている、ナオが好きな表に出したくない本来の少女の面が「マユ」。
プレイヤーから見ると、確かに序盤はサンゴのガサツさが頼もしくも見える。けど実際は、50日目の共通イベントから徐々にその仮面も剥がれていく。本当はクルミに勝てない自分を閉じ込め、ナオに興味はない風を装っているだけ。そしてその態度をナオが信じているため、その目が自分に向くことは無く、ますます嫉妬と自己嫌悪に苛まれる・・・という悪循環が本格化していく。
素直になろうよ、そんなに苦しむのなら「サンゴ」なんて捨ててしまおうよ・・・って思うくらい、痛々しくなってくる。
「サンゴ」も「マユ」も「あたし」
75日目の共通イベントではマユとしての心の声が出てきて自問自答、その直後の「願いが叶う楠の噂」では嫉妬心もごちゃ混ぜになった結果クルミの不幸を願ってしまったり、8月9日の電話後に自分はサンゴだと何度も言い聞かせる等、見ていられないくらいサンゴは追い詰められていく。
それでも、「マユ」には戻らなかった。マユに戻るということは、ナオに恋する一人の少女になるということ。しかし傍にいて見続けてきた故にか、クルミに勝てないと分かっている、いや勝てないと思っているサンゴはそれに何の意味も無いと分かっていたから、結果としてサンゴでいるしかなかった。
サンゴであり続けることしか出来なかった。
100日目にトモキさんが合わせ鏡のようにサンゴに問い掛けている通り、サンゴの場合は「あたし」とは何なのか、曖昧になったまま話が進んでいる。
サンゴに焦点を絞ると、サンゴの100日は「サンゴ」という偽りの自分を捨て、「ヒラウチマユ」という本来の自分を受け入れる、「あたし」を確立する物語になっている。
霊障シーンは「マユ」の訴え
霊障シーンも3人共に内容が違うが、サンゴの場合は自分のドッペルゲンガー、女性の霊の大群、自殺するという作文を書くなど、クルミやナオと気色が違う。これも最後まで遊んでみれば、何故このような内容なのか納得した。
サンゴの霊障に出てくるドッペルゲンガー、あれはサンゴではなく「マユ」だと思う。自分を無視するな、受け入れろという心の声が、霊障として表れているのかなと。
また、ドッペルゲンガーだけではなく夥しい数の霊が出てくる霊障があるが、それが全て「女性」であるのが興味深い。封印している女としての側面が「サンゴ」に訴えているようにも見える。
自殺するという作文を書くのも、クルミが大人になるのを拒否して命を絶ったことを考えればあり得ること。マユに戻ることも出来ず、しかしサンゴであることにも耐えられなくなったのだとしたら、命を絶つ道を選ぶ可能性はある。
サンゴの霊障は、サンゴであることにこだわる自分への、霊障という形での自問自答なのだと自分は受け取った。
マユとしての歩みはこれから始まる
クルミの死という辛い経験も経て、サンゴはナオへの気持ちに正直になった。
最終的にクルミは大人になることを拒否し、永遠に「現在」のままでいることを選んだ。ナオは大人へ近づきこそしたものの、まだクルミという「過去」に想いを馳せている。そしてサンゴは、過去に踏ん切りを付け、既に「未来」へ向いている。
きっとサンゴがいればナオは大丈夫。過去であるクルミに縛られることなく、サンゴが未来を向かせて歩かせるでしょう。
けれど、マユである自分を受け入れても、サンゴにとってはこれからが大変。これからもナオの傍に居続けるには、過去であるクルミにも、新たな敵になるサンジョウにも勝たなければならない。
3人の中で唯一未来を向いて終わったサンゴだからこそ、最後のあの台詞が非常に似合うし、夕闇通り探検隊の最後を飾る言葉としてふさわしい。もしも夕闇のテキストに喋っている人の名前が出てくる形式だったとしたら、普段はサンゴになっていて、最後の台詞だけマユに変わっていたことでしょう。
「あたし、きっと可愛くなるから!」とナオに言ったその瞬間から、サンゴはヒラウチマユという自分を受け入れた。そして自分の気持ちに正直に、今度は全力でナオを振り向かせるのでしょう。